日本人とバラ。出会い、そしてこれから|バラ物語

水をはった陶器製の水鉢のなかに植物とバラを浮かせている写真。

今でこそ世界中で愛されるバラですが、人類とバラとの出会いはいつ頃まで遡ることができるのでしょうか。

今日につづく人々とバラとの関わりあいの歴史。その歴史のはじまりとはいつなのか。

本稿では我々日本人とバラとの出会いから今日までの関わりあいの歴史とこれから先の関係について案内しようと思います。

 

水に浮かせたピンクのバラが2輪写っている。涼しそうに見える。

涼を楽しむ先人の知恵にならいメダカが悠然と泳いでいる陶器の水鉢にバラを浮かべてみた。

 

奈良時代―記録に初登場

今から約1300年ほど昔の奈良時代の末期頃に、各地で詠まれた歌を集めた「万葉集」という書物が編まれました。2019年からの新しい元号「令和」の典拠にもなった書物です。

学校の歴史授業でも学習することからなじみ深い万葉集ですが、このなかの歌のひとつにバラを扱った歌が登場します。

また、当時の各地域の実情などを朝廷に報告した文書である「古風土記(コフドキ)」のひとつにも登場しています。

これらの2つが記録に残る日本人とバラとの関係を伺わせる最古の足どりです。

 

万葉集に「ノイバラ」が登場

「防人(サキモリ)の歌」や「東歌(アズマウタ)」などで史料価値が高いといわれる万葉集には、日本で自生する「ノイバラ(野バラ)」の古語が登場しています。

「棘腹(ウバラ」や「荊(ウマラ)」の文字がそれで、これらは現代でいうノイバラだと考えられています。

ノイバラは今日でも九州から北海道の平地・山地に自生しているバラです。つる性と房咲き性が特徴の品種で、日本で接ぎ木された園芸品種の台木となっているため我々とも身近な関係にあります。

ノイバラはまた 木立ち性・フロリバンダ系統 の祖父母でもあります。フロリバンダの房咲き性はノイバラに起源するもので、これよりのちにヨーロッパにわたりバラの品種改良の歴史上極めて重要な種とされることになりますが、それはまだ後世のことです。

 

当時の目的は「防衛」用が主

今日の茨城県は江戸時代までは「常陸(ヒタチ)」と呼ばれていました。この常陸に関する1300年ほど昔の記録である「常陸国風土記(ヒタチノクニフドキ)」にもバラとの関わりあいを伺わせる記録が残されています。

詳述はしませんが、簡単に言えば、バラの最大の特徴である“とげ”を使って外敵(侵入者)を退けたことが描かれています

バラのとげは今も取扱いに難渋するものですが、先人はこれを武器・防具に類するものとして主眼を置いて関わっていたことがわかります。

―「防衛ツール(道具)として。」―

日本人とバラとの関わりは今日のように花を愛でるというよりは、機能性・実用性に重きが置かれていたようです。

なお、“とげ”とは“茨(いばら)”と同義で、常陸に残されていた「茨城(“ウ”バラキ)」の地名が今日の同名の由来だと伝え聞きます。

茨城県はバラとの深いかかわりを感じさせる名称です。

 

平安時代―「薔薇」の漢字が初お目見え

三十六歌仙のひとりで万葉集の編者のひとりでもある「紀貫之(キノツラユキ)」の歌のタイトルに「薔薇」の文字が使われています。

しかし当時はまだ「バラ」とは読まれず「さうひ(→そうび)」と読まれており、いつ頃から「薔薇=バラ」と読まれるようになったのかは明らかではなく、今後の研究が待たれるところです。

いずれにしても、万葉集以後に薔薇の文字が使われるようになったのはたしかで、最古の漢和辞典とされる「倭名類聚抄(ワミョウルイジュショウ)」という書物などにも「薔薇」の漢字が登場しています。

 

平安時代~江戸時代

既にノイバラや中国から渡来した種が国内にあったものの、日本において平安時代以降に品種改良などが行われていた様子は記録上見えないようです。

仙台藩(藩祖:伊達政宗)が17世紀初期にヨーロッパに派遣した「慶長遣欧使節(ケイチョウケンオウシセツ)」を率いた伊達家家臣「支倉常長(ハセクラツネナガ)」が西洋からバラを持ち帰ったことが記録に残されているものの、どのような関わりあいがあったのかを直接うかがい知ることはできないようです。

その他の江戸時代の書物にはわずかな説明を見ることができますが、やはり現代のバラの取扱いの様子からくらべてみると隔世の感があります。

バラが我が国の表舞台に登場するにはなお多くの時間を要することになります。

 

明治時代以降

西洋で ハイブリッド・ティー系統 が作出されるなどバラの黄金時代を迎えつつある頃、文明開化を迎えた日本では盛んに西洋の文物が取り入れられるようになっていました。

西洋で生み出された華やかなバラが国内に入ってきたのはこの明治時代以降のことで、この時代にいたり、ようやく我が国でも園芸としてのバラ栽培のはじまりを見ることができるようになります。

北原白秋(キタハラハクシュウ)の詩に登場するなど、バラを愛でる意識が高まるのはこの時代以降のことです。

 

昭和時代―大戦後から今日へ

じつは我が国でバラの品種改良(=育種)が本格化したのは先の大戦後からであり、深い歴史があるわけではありません。

兵糧(ヒョウロウ)用などの食糧増産が至上命題だった国策が大戦の終結を機に転換を迎え、嗜好品としてのバラに視線が注がれてゆくことになります。

1960年代からの高度経済成長による時代の高揚感とライフスタイルの急速な欧米化の影響もあり、「色とりどりの大輪花・豊かな芳香・四季咲き性」など、いかにも西洋人好みだった豪華絢爛さが特徴のハイブリッドティー・ローズの人気が高まるようになりました。

「100本のバラの花束」が喜ばれるようになります。

これまでの日本人の根底にあった価値観である禅や「わび・さび」とは真逆とも思われる特徴をもった現代バラが我が国で広く受け入れられるようになった理由は、陰惨で息苦しい時代を駆け抜けてきた解放感に似た感情ゆえの、ひとえに価値観の大転換があったからこそのものだと私見しています。

いずれにせよ、バラが「花の女王」として日本人に広く受け入れられるようになったことにより、これまで切り花生産を行っていた農家などがバラの育種に取り組むようにもなり、今日の著名なナーサリーが誕生する背景となりました。

また、バラは復興の象徴として各地で植樹が進み、たとえば「福山市ばら公園」などのバラ公園が各地で整備されていくことになります。

関連 : 福山市ばら公園|市内各地に花開く、100万本のバラの街|広島県福山市

 

そしてこれから

20世紀の終わり頃からは日本産の品種が数多く登場するようになってきました。

まだ20~30年程度と短期間でありながら、意欲的で魅力的な品種が次々と発表されています。

たとえば「ロサ・オリエンティス」や「和ばら」などの西洋品種とはまた違った魅力をもった品種(・ブランド・ジャンル)が生み出されています。

淡い桃色のカップ咲きのバラ「みさき」の花姿。美しい写真。[撮影者:花田昇崇]

和バラの「みさき」。淡く控えめなピンクの花びらは、はかなくも美しい桜を思わせる。

 

バラは時代により様々に変容してきました。繰り返し品種改良されてきたバラの歴史自体がそれを物語っています。

大輪花の獲得の歴史。

四季咲き性の獲得の歴史。

そして不可能への挑戦である青色のバラへと至る道。

バラの美しさとは人の欲望の産物と言い換えることができるかもしれません。それがゆえ我々を強く惹きつける魅力をもっているのだと。

そう思い至れば―すべては時代の感性に身を委ねながら心のゆくまま楽しむのがよい―のだと納得します。

時代と人の感性によって様々な特徴があらわれては消えゆくバラは、これからも日本人の感性に寄り添い、移ろいながら我々を楽しませてくれそうです。

 

本稿のまとめ

さて、いかがだったでしょうか。

本稿では日本人とバラとの関わりあいの歴史について、記録に見られる最古の足取りから現代へと歩みを進めてまいりました。過去を知ることは未来をよりよく見つめることになるのではないかとの思いから本稿を執筆してみました。

本稿が皆様のより良い暮らしに役立てば幸いです。あなたもバラと暮らす生活をはじめませんか?

 

写真・記事の無断掲載・転載を禁止します。

Sentence/All photos:花田昇崇

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